浄土真宗 本願寺派 無 量 院  久遠 山 西光寺
住職挨拶
 
慈光照護のもと皆様方におかれましては、ご清適にお過ごしのことと推察いたします。

浄土真宗の宗祖であられます、親鸞聖人が鎌倉時代に京都にございます青蓮院というお寺で得度をされたときに、うたわれたといわれます和歌に「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐のふかぬものかは」というのがございます。

親鸞聖人はこの和歌をうたっては、明日に桜のお花見をしようと思っていても、夜中に嵐が来て満開の桜の花が散ってしまうかもしれない、私の得度も明日に日を延ばさずに今日のうちにお願いいたしますと言われたそうです。

仏教の無常観、命のはかなさといったものを見据えたお言葉であられると思います。

そして、親鸞聖人から八代目にあたります室町時代の方に浄土真宗の中興の祖といわれます蓮如上人という方がいらっしゃいました。

この蓮如上人が当時、自分の小さな子供さんを亡くされまして悲しみに打ち沈んでおられました、あるおさむらいさんにあてて書かれましたお手紙がのこされております。

その一節に次のような文章がございます。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
このお手紙の意味は、朝には元気で紅い顔をしていたのに、夕方には突然に亡くなってしまって今は白いお骨、白骨になってしまったという、これもまた仏教の無常観、命のはかなさ、そして、命の尊さといったものをあらわしておられます。

このおさむらいさんは、いままで何人もの人々を刀で切って殺してきまして、なんとも思わなかった。
しかし、自分の小さな子供を亡くして初めていままで自分が殺してきた人々も誰かの子供であられたり、また誰かの親であられたということに思いがいたった、この蓮如上人のお手紙によって気がつかされたと伝えられております。

また、「親」という漢字」について当て字でおもしろい解釈をされているのを聞いたことがあります。
それは厳しい自然環境の中で草や木の種が落ち、やがて小さな芽が出て、だんだんと立派な「立木」に育っていくのを「見」続けていく、「見」守っていくという、もちろん正式な漢字の意味ではございませんが、この「親」という漢字からはそのような有り難い連想ができます。

仏教には「報恩感謝」という言葉がございます。

様々なご恩に報いさせていただいて、その感謝の気持ちから手を合わさせていただく、合掌させていただくということであります。

このような「報恩感謝」の気持ちを持たれまして二度と来ない今日、毎日毎日が新しい日々を過ごしていかれればと思います。

合掌
無量院久遠山西光寺住職
藤本弘教
 
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